デイジー

愛猫デイジーと暮らしています。児童文学を書いています。

啐啄同時のとき

あーあ、楽しみにしていたイベントに行けなかった。

まあ、基本的に内向きだから、家のことを優先してしまう。我が家の家族の一員である愛車の一大事だったのだからしょうがない。

子どもの頃に「小公子」を読んで面白かったので「小公女」も読んだら、あまりの悲劇ぶりに胸がつまってしまった。心臓がドキドキして、胸が痛くて、息が苦しくなる。無理矢理読み終えたけれど、大変だった。

ネットの普及した現在にその症状を検索したらパニックだった。いくら子どもとはいえ「小公女」を読んでパニックを起こしてどうするんだよ、と、四十代後半になったらから言えるけど、子ども心に「小公女」は一大事だった。おとぎ話の本はいろいろ読んだけれど「おむすびころりん」と「不思議の国のアリス」が苦手だった。どこに行ってしまうかわからなかったから。

少し成長してから読んだ太宰治の「斜陽」も、ダメだった。蛇が卵を探して歩く描写を読んで、本を弾き飛ばしてしまった。あまりにもかわいそうだったから。「小公女」と「斜陽」の共通点は、富裕層の人が没落していくこと。「おむすびころりん」と「不思議の国のアリス」のように、没落した後、どこに行くのかわからない。

本が悪いのではなくて、こんな感性の人間のほうが悪いと思う。自分は本を読む資格のない人間なんだ、と、落ち込んだ。落ち込めば落ち込むほど、何を読んでも、訳が分からなくなった。

そのときは、突然訪れた。

ある作家の紀行文を読んだとき、がちゃりと、音がした。何かの鍵が外れたような気もしたし、何かのスイッチが入ったような気もした。

こういう本が読みたかったんだ!

そうだよ、これだよ!

うん、だけど、それ、二〇年前に出版されていたんだよ。二〇年前に、その本を読んでいて、感動したかな? たぶん、しなかった。心のシャッターを全部おろしていたから。あの頃は、何を読んでもダメだったんだ。

啐啄同時だったんだと思う。

自分が欲しかった子ども時代の思い出を、はからずも子どもの成長に投影していた。スカスカだった心に何かが生まれた。その子どもも成人した。

そんなときに読んで感動した。尊敬する作家の本に出てくる本も読んだ。こういう面白い本があったんだと嬉しかった。