デイジー

愛猫デイジーと暮らしています。児童文学を書いています。

集合、浅草ナポリタン

大雨警報がでていたけれど、浅草に出かけた。どうしても、アンジェラスのコーヒー豆を娘に持たせたくて。

もしも、だけれど、わたしが子ども時代を、もっとちゃんと生きていれば、娘に運命の半分を背負わすことはなかった。だけど、あんな家に生まれて、あれ以上、わたしになにが出来たというんだろう。人を殺めなかっただけ、良かったような気がする。

救いなのは、背負った半分の運命を、娘が、わりと楽しく感じていること。大変なことも、怖い思いをしたこともあったのに、それでも、背負って大きくなってパワーを増した分だけ、仲間に助けられている。

娘の将来がどうなるかわからないけれど、コーヒーが好きという方に、アンジェラスのコーヒー豆を届けたいと思った。全国、どこでもなんでも手に入る時代だけれど、アンジェラスのコーヒーはアンジェラスだけにあるから。

大雨の影響でも、予定を変えられないのだろうか。外国人観光客が目立った。少ないとはいえ、仲見世通りは人々が観光を楽しんでいるので、仲見世通りの裏を早足で歩いた。

本堂でお参りしたあとは、裏観音にお参りをする。お祓いを受けている人々がいて、そのお経を隅のほうで聴いて、終わった後に裏観音にお参りをした。

おなかが空いていたので、ぶらぶらと歩き回り、何を食べようかと思った。蕎麦、うどん、銀だら、どんこ、天ぷら、ビーフシチュー、すき焼き、結構、食べている。それでも、新しいお店を探そうと、看板に「昔、懐かしいナポリタン」と書いてあるお店に入った。昭和の雰囲気の店内は少々薄暗い。煙草もオーケー。どこかのモデルルームのように、一環したテイストで整えられたのではなく、親しい知人の旅行のお土産や、店主の思いがこもった置物が店を飾る。

オムライス、生姜焼きと一緒に、メニューには、お目当てのナポリタンがあった。ホットコーヒーを食前にお願いして、じっと待つ。食前のコーヒーの前に、みそ汁が出てきた。間違えたかな、と思ったけれど、ナポリタンのセットとのこと。

厨房からは、ジュワーっと、炒める音がしてきた。香りも、間違いなくナポリタン。ほかほかの湯気をたてて運ばれてきたナポリタン。すごくいい香り。このトマト味の懐かしさ、誰もが記憶の奥に持つ郷愁。

この料理を嫌いな人は地球上にいないはずだ。たぶん。

食べていると、涙が出そうなぐらい美味しくて、懐かしい。それにフォークを持ちながらすするみそ汁が、あう。

浅草、最高。

地球上の誰もが大好きな、ナポリタン。共通する感覚?

先日、読み終えた「常世論」の一説。

「死者が祖霊の中に加わるとき、それは個性的なものを徐々に脱ぎ落としていく。(中略)死者が非個性的な祖霊のあつまりの仲間入りをするということは、それまでの計り知れないほどの民族としての体験の集積に、一つ体験を付け加えたことを意味している。祖霊信仰が、ユングのいう集合的無意識の観念に似ているのはこの故である」

集合的無意識を、ナポリタンと一緒にするなよ、と、自分でつっこみを入れる。まだ、死者じゃないし。

そもそも「信仰」や「集団的無意識」を、誰かが見てきて、スマホに証拠動画を撮ったわけではないのだから、正確に存在するとはいえないかもしれない。それでも、国境も、紛争も、人種も超えて、共通に感じる何かを誰もが感じながら持っている、という概念は、誰もが感じている。

二十年も主婦をしていて思うのは、料理とは、食材の火葬だということ。誰も好き好んで食べられたいとは思っていない。「食材」となってしまった命の憎悪も、邪念も、火を通して穢れを祓い別のステージに魂をつなぐ。生食するものは、憎悪や邪念のついていない新鮮なもの。「よく火を通す」「よく煮込む」というのは、菌や、ウイルスだけのことではないのかもしれない。

若狭ではかつて、海辺に産屋を造り、お産が終わると焼き払ったという。海辺は生死の境目であった。黄泉の国からの穢れを持っているかもしれにない新生児が生まれたとき、火を放って穢れを落とした。

まだまだ、先のことだけれど、むしろ、わたしのほうが先だけれど、運命の半分を背負わせてしまった娘は、集団的無意識の中に入れると思う。生きている今でさえ、仲間がいるから。

子どものころから、仲間というものから、はじき飛ばされてきたわたしは、仲間の持ち方がわからない。個性的なものを脱ぎ落としていきながら、祖霊の仲間入りをするのは、体験を一つ付け加えることになるという、この矛盾する経緯を、ちゃんとこなせるだろうか。

誰もが大好きな、ナポリタン、美味しいと思うけれど。