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デイジー

気持ちがいいと、イビキをかきます。

背徳ではなく

ひっちゃかめっちゃかの机の上にあるパソコンから、昨晩、三冊の本を注文した。尊敬する作家が、大学院で課題とする本。大学院というところに行ったことはないし、どんな言葉が交わされるかもわからないけれど、本なら読めるかもしれないと思ったから。

雑然としている机の上に乗っている本は、荻原規子さん「RDG」、岡潔「春風夏雨」、「すばる 4月号」「日本に住む英国人がイギリスに戻らない本当の理由」、神田の古本屋で見つけた「日本の村落と都市」

バラバラの分野の本が散乱する机で堂々と真ん中に鎮座するのは、昨晩、娘が貸してくれたサイコパス1「公式ガイドブック」咬噛慎也が表紙。

子ども時代の読書から、大人世代の読書へ移行するとき、誰も何の抵抗もないのだろうか。「小公子」や 「赤毛のアン」を読んでいた人々は、何の抵抗もなく、背徳の競争のような小説を読むのだろうか。十代後半から二十代にかけて文芸書を読んだけれど、何だかわからなかった。自分がアホなんだ、この小説を理解する能力が無いんだと落ち込んだ。

娘が生まれてからは、自分の読みたい本というよりも、子どもに読ませたい本を考えることが多かった。その娘も成人して、これからは自分の好きなことができると、ほっとしているところ。

ラノベという分野の源流といわれるものは七◯年代にあったようだけれど、台頭してきたのは二◯◯◯年頃のようで、わたし自身は読んでいない。ラノベとよばれる本を娘が読んでいると注意したこともあった。自分は挫折したけれど、世間では評価されている背徳の競争のような小説を読まなければならないと思って。

子どもが成人すると「母親業」も一段落である。気がゆるんだのか、ほっとしたのか、世間で話題になっている本を「子どもにとって有害かどうか」を考えずに、ふっと読んでみたいと思った。

といっても「くちびるに歌を」という中田永一氏の作品である。映画化もされ、中高校生に話題という。娘に「ラノベなの?」と聞くと、うやむやな返事だった。読まず嫌いはいけないと思い、とにかく読んでみた。

ラノベとか、児童文学とか、文芸書とか、背徳の競争とか、そういう分野を乗り越えていた。自分の青春時代に、この本があったらな、と思った。他の筆名でも作品を書かれていて、いろいろ検索しているうちに荻原規子氏の作品も知った。両氏の作品で共通しているのは、比喩と心理描写が素晴らしいということ。

今の中高校生は、この作品を当たり前のように読んでいるかもしれないけれど、三十年前、中高校生が読む本で、こんなに美しい文章を書く人は少なかった。

自分が気がつかなかっただけだろうか。そんな気もする。もっといえば「自分の好み」も気づかなかったのではないだろうか。

契約している税理士さんが神保町にいらっしゃるので、月に一度、ふらふらと出かける。古本屋街を歩いていて、遅ればせながら気づいた。背徳の小説は、あまり好きでないと。

「日本の村落と都市」のように、歴史物でもノンフィクションが好き。広辞苑のように分厚い「村史」を見つけるとわくわくしてしまう。尊敬する作家は旅のエッセイを書かれている。文学的センスの乏しいわたしは、詩の世界観にはついていけない。デビュー作は一九八九年、生きているのが精一杯のときだった。あの頃、尊敬する作家の作品を読んでいたら外国へ行っていたろうか。青年海外協力隊に憧れていたけれど、憧れは、現実社会では迷惑だから。

ライトノベルとは軽小説と分類されるそうだ。背徳の競争は重小説と呼ぶのだろうか。わたしの子どもの頃、菊池寛の「恩讐の彼方へ」が少年少女の読み物にあった。人生を生きてみると、苦しいことが多くある。苦しいときに、同じように苦しい出来事の小説を読んで癒すのか、明るい小説を読んで現実を忘れるのか。その人のタイプなのだろう。