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デイジー

気持ちがいいと、イビキをかきます。

百年の雪見障子

江戸三十三観音、二十番札所、天徳寺は、多くの寺社の中でも特に巨大なビルが立ち並ぶ中にひっそりと佇んでいる。港区虎ノ門という住所のとおり、周囲は日本を代表するような企業が入るビルと、高級マンションだった。

二十番まで来ると、様々なお寺をまわっているので、周囲の喧噪と境内の静けさのギャップには慣れてきたものの、天徳寺のゆったりと草木が生える境内は、平成の時代とは、あきらかに違う気が流れていた。

たいへん失礼ながら、お寺の建物はとても古く、一般の家庭の縁側のようにも見え、ここが玄関でいいのだろうかと戸惑った。不釣り合いなほど立派な紫色の葵の御紋がかかった玄関のインターホンを押すのも勇気がいった。しばらくすると、身ぎれいな初老の女性が応対してくれた。三十三観音巡りをしている旨を伝えると「どうぞ、おあがりください。観音様は左側です」と案内された。

昔ながらの敷居の高い土間をあがると、揺らぐような感覚がした。その左手の部屋に観音様がいらっしゃった。

飴色の柱、低い天井、わずか二世代前の日本人の小柄なことに驚いてしまう。音がしない空間に、様々な気配がする。何人もの人が観音様の前に座り、祈り、宴もあったことだろう。古い家屋の隅々まで、人々の息づかいが残っている。

この場所を訪れた、たくさんの人々の思いが多すぎて揺れるのだろうか。じっと座っているだけなのに、何かしら空間が揺れている。

観音様は、五、六歳ぐらいの幼子の大きさである。この小さな体で衆生済度をされているのかと思うと、有り難くも申し訳ないような気になり、普段の生活を、ふと省みてしまう。

雪見障子で、境内の草木が風に揺れるのがみえる。

石油ストーブは、観音様の側と、部屋の最奥の二つだった。ストーブを点けたとしても、わずかな風で、カタカタと音がする雪見障子である。隙間から入る冷たい空気に凍えることだろう。

虎ノ門の街を歩いていたとき、ほとんど風は無かった。少し風が強い日、台風のような日、どれほど雪見障子は揺れて音がするのだろう。巨大なビルが風除けになるのだろうか。それともビル風を巻き起こして家屋を襲撃するのか。雨戸を閉めたとしても、それほど違いはないような気がする。

天徳寺は、一六一五年、徳川家康公、一六二三年には二代秀忠公より御朱印を賜り、五代綱吉公の奏請により常紫衣寺となる。長きにわたる江戸時代のあと、明治の世になり怒濤のごとく押し寄せた他国の文明にも、戦争にも、バブルにも、耐え抜いてきたのは常紫衣寺としての歴史と市井の人々の信仰の賜物といえる。

かつての日本人は、こうした家屋で暮らしていた。むしろ、余裕のある人々が暮らしていた。ハイテクの地下鉄を乗り継ぎ、国を動かすような仕事をこなす人々の間を抜けると、幼子のような観音様に出会う。

初老の女性が御朱印を持ってきてくださった。御朱印は、神仏の分身を受け賜るという意味もある。

辞するとき、雪見障子の家屋の感想を伝えた。

「観音巡りの方は、風情があるといってお褒めになりますが、若い方はねえ。なんでも、震災の後だか、先だかで、建物をそのままそっくり、この辺りの沼に持ってきたそうで、昔はそのようなことも出来たでしょう」

震災とは、一九二三年の関東大震災のこと。この家屋は約百年前を知っている。網戸もない雪見障子では、蚊や虫が入るだろうし、冬はいくらストーブを焚いても凍えることだろう。住みながら守る者にとっては、過酷な日々である。

揺らぐような空間は、沼地の水の揺らぎでもあるし、移してきた建物の揺らぎでもあるし、混乱の世を見守ってきた揺らぎでもあった。

同じことを何度も聞かれて、何度も応えてきたのだろう。客人をそっと帰途に戻すために、次の予定を聞き「では、お気をつけて」と送り出された。

紫の葵の御紋をくぐるとき、徳川の長い歴史と、徳川に繋がるさらに長い歴史を思う。

山門を出れば、平成の街が動いている。