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デイジー

ちょっとだけ、あたたかくなりました。春はもう少しです。

下北沢の悲しみ

昨日、神保町で、さぼうるのナポリタンを、黙々と食べた。

隣りの席で、黒いスーツを着た二人のサラリーマンが煙草を吸いはじめて、お気に入りのカシミアカーディガンに臭いがついてしまうと、悲しくなった。

日曜日の午後、下北沢に行った。途中、メトロの駅の公衆トイレの鏡で、四六歳の自分の顔を眺めた。最後に下北沢に行ったのは、いつだっけ?

井の頭線の電車の中で、若者が話している。

「シモキタのどこが若者の街なんだよ。ジジイばっかし」

ジジイばっかしという街に、若者は消えて行った。二十歳の頃は、誰もが自分が老いるということを忘れている。白髪に皺が寄った顔の人々と、自分たちは、別次元で住んでいると思っている。

尊敬する作家が、多くを語らなかったのが悲しかった。尊敬する作家が話をする場所ではなかった。気づかずに行った自分が悲しかった。

悲しい気持ちを抱えて、夜の下北沢を歩いた。

二十歳のときも、悲しい気持ちを抱えて下北沢を歩いた。暑い日もあったし、寒い日もあった。明るい休日もあったし、暗い夜もあった。下北沢の店に入ったことは無かった。店のひとつひとつに、コンセプトなるものがあり、きちんとした意思があり、浪漫があった。社会を批判しつつ、アウトローを気取りつつ、しっかりと社会と繋がっている人々のところに、社会から切り離された人間は入れなかった。

細い路地のひとつひとつが、意味が無いという意味をもち、体制を批判してはいないけれど認めてもいないという関わりを求め、お行儀良くスーツを着た人々と違うと主張しながら門戸を開けている。

吉祥寺も歩いた。おもに生活用品を買うために。駅前のマックで、ポツンとひとりで珈琲を飲んでいた。

表参道も歩いた。バブル絶頂期の街で、着飾る人々の中で、よれよれのシャツとジーンズとスニーカーで、リュックを背負って歩いた。我が世を謳歌する人々は、決してわたしのような人間を視界に入れなかった。

 

昨日、神保町で、さぼうるのナポリタンを、黙々と食べた。

大学生の娘の結婚のこと、六十を過ぎた夫の仕事のこと、八年間続けた会社のこと、税理士さんからの営業のこと、透明な図書館を持つ人のこと、悲しみと思っていたことが社会とわたしをつないでいる。