デイジー

猫のデイジーと暮らしています。

メンタル耐震工事

砂上の楼閣は、物理的、組織的な危うさだけでなく、精神の構造にも比喩できる。何事も基本や土台が大事だということで、精神の土台は幼少期につくられる。

人間に殴られて育った犬は、人間に憎しみを持つ。人間に殴られて育った人間も、人間に憎しみを持つ。憎しみを愛情で昇華していくのが人間と動物の違いだ、とか、耐えているから人間だ、とか、報復を恐れる人間の詭弁に聞こえる。

 社会生活を送れなくなる人も、少なからずいる。昔は、「折檻」という言葉が新聞に踊ったけれど、昨今では、虐待というらしい。

笑ったり、宿題をしていると「いい子ぶってる!」と怒鳴られ、あまりの暴言に言い返すと、すぐに被害者ぶるので、ケンカにならなかった人物がいた。不思議なことに大人がいるときや、学校ではとても「良い子」だった。

豹変する人間と、豹変する人間を良い子と呼ぶ社会に憎しみを抱き、蔑みながら成長した人間は、さぞ醜かったろう。自分のアンバランスさを感じながらも、どうすることもできずに生きていた。

子どもが生まれてから、優しくしても怒鳴られない、ということを知った。様々な人間関係の上で、優しさを否定し社会から嫌われるように願う人もいれば、優しさを偽善だという人もいた。生後数ヶ月の人間は、優しさを精神的な生きる糧として、すべてを吸収し、すべてを肯定する。

一匹の猫を家族に迎えたとき、愛することの喜びを知った。「大好きだよ」と伝えると、とにかく喜ぶ。愛して、喜ばれる充実感は、愛される以上の喜びに満たされる。それで憎しみが消えるわけではない。忘れるわけではない。対処法が変わる。

憎しみを 忘れない人がいるだろうか。

苦しみが 消えない人がいるだろうか。

ネットには、十数年前に自分をいじめた人間が不幸に陥り、その不幸をもって報復の喜びに浸るような書き込みが多々ある。憎しみや苦しみは消えない。喜びや愛情でカバーをし、日常からは見えないようにしているだけだ。

あの大きな地震の後、建物の耐震工事の話題が多くなった。既存の建物でも、後から「耐震工事」ができる、と。

たとえ砂上の楼閣のような既存のメンタルでも、後から耐震工事ができるのではないか。愛とか、優しさとかで。

どんな辛いことも、許せば楽になると説く人間がいても、罪を許せない人間は劣っていると誰かが言っても、放っておけばいい。清濁は、併せ持ってこそ完成する。

人間が苦しみや憎しみを許したのか、忘れたのか、消したのか、神が判断すること。

愛すること、親切にすること、信用すること、優しくすることが、難しくなった時代に、愛情を持って日常を送ることが、一番難しいのだから。