デイジー

猫のデイジーと暮らしています。

イタチ毛の筆

小学生の頃、習字の授業が大嫌いだった。とにかく面倒くさい。筆は思うように動かず、あらぬ方向に動いて跳ねる。先生が赤丸をつけてくれることは、ほとんどなかった。

四〇を過ぎてから、あの大きな震災があった。

日本中に起きたこと。

世界中に起きたこと。

関東に住む自分は、被害者なのか、加害者なのか。

自分の非力さを嘆いた。悩みながら、たどり着いたのが巡礼だった。

江戸の観音様を巡ろう。わたしでも、祈ることは出来る。

それから般若心経の写経が始まった。

スーパーの文房具売場で学童用の小筆と墨汁を購入し、般若心経の紙は参拝していたお寺の近くのお店で購入した。

あれほど嫌いだった習字を不惑を過ぎてから、自らやり始めるとは、学童用の墨汁を小皿に入れながら苦笑してしまう。

もともと悪筆のうえ、思うように小筆は動かない。写経の文字はお世辞にもきれいではない。丁寧に、心をこめて書くことが大事だと言われても、文字として浮かびあがった仏様に申し訳なかった。

もっと現実的な問題は、小筆の先が割れてしまうことだった。悪筆が二重の線になってしまうことも度々あり、あれこれ小筆を試しても、二、三枚書くと小筆の先が割れてしまう。

困っていた頃、近所のショッピングセンターの催事で、筆を売っていた。習字用の筆だけでなくメーク用の頬ブラシなども売っていた。暇なのだろう。店主は口を開けて居眠りをしながら店番をしている。大勢の買い物客の中で売られている筆は、うっすらと埃も被っているので、店の前を素通りした。

「イタチ毛が良いらしいぞ」

居眠りしていた主人を起こして、夫が聞いたらしい。

「これ、おじさんが作ったの?」

夫が、聞く。

「いやー、こんなに手が震えちまって、もう作れないですよ」

差し出した手のひらは病気なのだろうか。小刻みに揺れていた。「もう、作れない」というのは、これまでは作っていたということ。

震える手を差し出すのは、潔い気もした。

イタチ毛の筆は、しなやかだった。

悪筆の上に、毛筆に慣れていない主の意志を先んじて進む。

ただ、ここまで来るには、筆との対話が必要だった。しばらく倉庫に眠っていた時間の硬さを解きほぐし、毛の芯まで墨汁が染み、イタチの野生が目覚めるまで、写経の文字は、大きくなったり、小さくなったり、以前にも増して乱れた。

ある瞬間、筆にたっぷりと墨汁を染み込ませてみた。したたる部分を小皿の縁で落とし、文字に挑んだ。するすると動き出した筆は、一行の写経を書き終えた。

一文字目から最後の文字まで、墨汁のしたたり具合は変わらず、部首をやや太めに、中の線は細めに、悪筆の主の、はね、止めも常識的な範囲に収めてくれた。見目麗しいかと問われれば、そうではないけれど、人様が読めるような文字になったと思う。

猫のデイジーと一緒に暮らし始めて三年になる。動物というのは、善意しか感じない。楽しそうな飼い主たちには近寄るけれど、喧嘩などをしていると、どこかに隠れてしまう。

写経に向かうとき、良い感情を持って書こうと思う。それが落ち着こうと思えば思うほど、腹が立つことが思い出され、中々、気持ちが落ち着かず、筆は乱れる。

イタチ毛の筆は、主の心を見つめている。