デイジー

愛猫デイジーと暮らしています。児童文学を書いています。

記憶ムービーの価値

小学生の頃、担任の教師が厚さ一◯センチほどの地図帳でクラス全員の頭を殴るということがあった。もちろん、それにはそれの理由があった。

成人式を迎えた頃、その先生と話す機会があった。自身でも後で後悔したらしく「何であんなことやったんだろう」と口にし、クラスの誰に聞いても覚えておらず、中には、殴られたことを忘れている者もいたそうだ。

その話を聞いて驚いたのは、わたしのほうだった。あの出来事に至った経緯を誰も覚えてない? どうして? あんな明確な理由があって、あんなに苦しんで来たのに。誰も覚えていない?

どんなふうに覚えているかというと、昔の言葉で言えば映画のワンシーンのように、今でいう動画のような感じである。休み時間になりはじけたクラスメートの顔、驚いた教頭の顔、焦った教師の顔、そして地図帳。

殴られたということだけで苦しんできたのではない。

中学生の頃、いじめで悩んでいたときに手紙をくれた。先生から手紙が来たから返事を書いていた。するとまた返事が来る。何で先生は手紙を寄越すのかな、と思っていた。

その先生が結婚するというので何人か呼ばれて集まったことがあった。お祝いの場だというのに、その場で味わされた屈辱をまだ我慢している。要するに、先生は手紙なんか面倒くさかったわけだ。返事が来て、迷惑だったわけだ。こっちだって我慢して書いていたのに、先に出してきたのは先生なのに、不愉快だという権利は教師だけにあり、教え子という立場はどんなに理不尽を我慢して嫌な思いをしても感謝だけを求められる。

そんな嫌なことを、四十代になっても時折フラッシュバッグする。現代の人は、動画を撮ると保存する。それを脳と置き換えれば、何かの拍子に昔の動画のスイッチを押してしまい不愉快な感情と共に動画は再生される。実は、動画のように記憶に残っているのはこの出来事だけではなかった。いくつも、いくつも、主に苦しかったり、悔しかったり、負の感情の出来事だった。それも自分の意志とは関係なく再生される。授業の重要事項を意図的に覚えられていれば、もっと違う人生になっていたかもしれない。

動画というものを知ってから、この嫌な出来事の記憶の再生を「記憶ムービー」と名付けていた。

この「記憶ムービー」での苦い経験は、ただ嫌なことを思い出すというだけではない。何かの出来事は、それぞれが、それぞれの形で記憶している。変わらない事実は、それぞれが、それぞれの形で忘却していくということ。忘却の仕方が同じであれば、「起こった出来事」をそのまま記憶している者と、同じように忘却した者たちとの記憶が変わり、同じ記憶を持つ多数派が正しいとみなされ、少数派が悪となる。

「なんで、そんなこと覚えてんの?」

「なんで、そんなこと根に持ってんの?」

「なんで、嘘つくの?」

他の人も同じように記憶ムービーがあると思って会話していたとき、そんなふうに言われた。そんなふうに言われる価値しかないんだ。自分は悪い人間なんだ。さらに落ち込んだ。

あの地図帳の出来事を、クラスメートは覚えていない。覚えていないことが多数派であり、正しいとなれば、わたしは嘘つきになる。